ジャカルタから西ジャワのクニンガンへ小旅行 1 2025/1/10

2024年12月上旬、ジャカルタからチレマイ山の側のクニンガンにいきました。

(記事の中のすべての写真はクリック拡大できます。)

水色の建物は2023年は天皇陛下と雅子さんが泊まったホテルだと思います。

写真では分かりにくいですが左にブンダランHIがあります。中心が噴水でロータリーになってます。

 

ブンダランHIではいつも写真をとってる人達がいます。僕もその一人です。

日本大使館です。

とりあえずMRTに乗って終点のレバックブルースを目指しました。MRTはものすごいきれいでトイレも清潔でびっくりしました。

ブンダランHI駅では人は多くなかったですが途中の駅から沢山、人が乗って来ました。乗車券はプリペイドカードで改札前で買うことができます。まあ、このあたりはインドネシア人の友人について行ってるだけですが。

インドネシアは来る度に発展していってるのを感じます。同時に物価がどんどん高くなっていってるように思います。

電車では女性専用車両に間違って乗ってしまって隣の車両に移動したりしました。

 

とりあえず30分くらい電車に乗ってたと思うのですがレバックブルースについたら暗くなってました。

電車代は100円ちょっとだったと思います。

さすがにインドネシア人の友人です。沢山あるバスの中でクニンガン行きのバスをすぐ見つけます。

 

料金は140ribルピアで安いです。しかし、この料金も数年したら値上がりするのだろうなと思います。車内は強烈にクーラーがきいてました。

バスの中で運転手が女性歌手の歌をずっと流していました。なんかせつない感じのばかりでした。indah yastami という人で他の人のカバーばかりしてるみたいですが、かなりの人気のようです。友人が教えてくれました。

途中、トイレ休憩もありトイレ使用料20円ぐらい払って用を足しましたが、また小便がしたくなり、なんとかクニンガンまで我慢しました。

 

バスから降りて用を足した後、ミーアヤム(ラーメンみたいなもの)を食べて友人の家で横になってたら寝てしまい朝になりました。

友人の家は守衛がいる住宅地にあります。駐車場付きのちゃんとした一軒家です。50坪ぐらいでしょうか。日本円で雪の家賃1万円もしないみたいです。友人はクニンガンの賃貸は安いんだと話します。

とりあえず、家でゴロゴロしながら昼飯を食べに行きました。友人はミナン人(スマトラ西部)なので、パダン料理が好きです。

インドネシアはどこに行ってもパダン料理屋がありますマレーシアでもパダン料理屋を見かけます。

ここで頼んだ魚の頭が無茶苦茶おいしかったです。白ご飯は写真のようなサイズなので結局おかわりを3回しました。

名前はkalapというようです。フエダイの仲間のようです。実際、味はイトヨリのように感じました。

友人は手で食べますが、僕はいつもスプーンを使います。インドネシアの人は手で食べるほうが美味しいといいますし、郷の従わないといけないのはわかってるのですが。

クニンガンはのんびりとした田舎です。海側のcirebonまで行けばもっと栄えてると思いますが。

僕が滞在したとかのクニンガンは全然、晴れてなくてチレマイ山がきれいに見えなかったです。

途中、友人が観光地を指先しました。建物の向かいに駐車場もあり中に入ることにしました。リンガルジャティ協定が行われた場所のようです。僕はリンガルジャティ協定というのを聞いたこともなかったのですが、日本撤退後、インドネシアは独立宣言をしますが、それを良しとしないオランダと協定を結んだ場所のようです。バンドン会議とかなら日本人も知っている人も多いと思いますが、このリンガルジャティ協定は知らない日本人も多いと思います。

誰がどこに座ってたとかわかります。

 

実際の座ってた机と椅子です。全然 触ることもできます。

 

インドネシアはずっとオランダの植民地にされていたところです。最後に日本に3年ほど統治されました。

 

実際、ここにスカルノやハッタが来てたなら、ものすごい有名な観光地になってたかもしれません。

インドネシア人の友人はいろいろ思うところがあると思います。彼はインドネシアサッカー代表の帰化人が沢山いるチームについて笑いながらヨーロッパの人間がインドネシア人にサッカーを教えてくれてると言ってました。実際、日本のラクビー代表が南アフリカに勝ったときメンバーがニュージーランドやオーストラリア人だらけで、妙な気持ちになったのを思いだしました。確かラクビーは日本に三年住めば日本代表に加わる権利ができるみたいです。帰化でもなんでもなかったです。

 

 

 

実際のリンガルジャティ協定の時の写真です。この写真の壁画が外の庭にもありました。

 

友人は日本軍について日本がいたから独立できたとか言ってくれますが実際romusha としてインドネシア人を働かしたのも日本軍であり80年経った今でも難しい問題として残っています。

そんな感じでぶらぶらしてて一旦、家に帰ってきました。

夜はチレマイ山のふもとのレストラン Arunika に行きました。続編のブログに記したいと思います。

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